グラナダさんぽ

世界遺産 アルハンブラ宮殿の街

流れを掴む歴史【スペイン】誕生までの道のり。

この記事ではスペイン王国が誕生するまでの成り立ちをまとめてみました。スペイン本土が位置するヨーロッパ南西端のイベリア半島は、様々な民族が融合し、異なる宗教が共存、そして様々な文化が交錯していった歴史があります。旅行前にざっくり知っておくだけでも、都市によって異なる雰囲気のスペインの街並みがより一層楽しめると思いますので、是非ご活用ください。黄色のマーカーラインを読むだけでも流れが掴めまス。

※この記事内の半島とはイベリア半島のことを指しています。

スペイン位置マップ

スペイン基本情報

España

国名 : スペイン王国 Reino de España レイノ・デ・エスパーニャ

国王 : ブルボン家 フェリペ6世 (在位:2014年6月19日~現在)

国土 : イベリア半島の82、バレアレス諸島、カナリア諸島、北アフリカの自治都市 (Ceuta セウタMelilla メリージャ)、他

自治州 : 17自治州、2自治都市

首都 : Madrid マドリッド

政体 : 議会君主制 

宗教 : 国民の約70%がカトリック教徒

人口 : 4907万人 (2025年1月)

面積 : 50.6万㎢

公用語 : スペイン語 (カスティーリャ語)

スペイン語と言われているのはカスティーリャ語です。カスティーリャ語の他にも公用語を持つ自治州があります。

  • カタルーニャ州 : カタルーニャ語、アラン語
  • バレアレス諸島 : カタルーニャ語
  • ナバラ州 : バスク語
  • バスク州 : バスク語
  • ガリシア州 : ガリシア語
  • バレンシア州 : バレンシア語

気候 : 4タイプ

  • 北部 海洋性気候
  • 東部、南部 地中海性気候
  • 中部 大陸性気候
  • カナリア諸島 亜熱帯性気候 

世界遺産 : 50カ所 (自然遺産4、文化遺産44、複合遺産2) 保有国5位

日本との時差 : 8時間 (サマータイム7時間)、カナリア諸島9時間 (サマータイム8時間)

日本はスペイン本土より8時間(夏7時間)先に進んでいます。

 

スペインの国章

スペインの国旗(国章付き)

Rojigualda ロヒグアルダ として知られる赤と金色がかった黄のスペインの国旗には2タイプあり、公式の場では国章付きのタイプが利用されています。

スペインの国章の図柄には盾の頂飾に君主制を表す王冠が飾られ、盾には現在のスペイン王国を構成する中世の王国(レオン王国カスティーリャ王国ナバラ王国アラゴン連合王国グラナダ王国)の紋章、中央の楕円にはブルボン家の花形の紋章が描かれています。

盾の両側には16世紀のハプスブルグ家出身のスペイン国王 Carlos Ⅰ カルロス1世(神聖ローマ皇帝 Carlos V カルロス5世) によって採用されたヘラクレスの柱があります。海の上に立つ柱はジブラルタル海峡の二つの岬を表し、帝国と王国の歴史を象徴する二つの王冠を被っています。ヘラクレスの柱は、世界の限界を表す境界を示すためにヘラクレスが山を二つに割ったというギリシャ神話に由来しています。

柱に巻かれたリボンにはラテン語で「PLVS VLTRA」と記されています。これはスペインのモットー Plus Ultra プルス ウルトラ (更に向こうへ)。古代ラテン語にはUがなかったことからUがVに。由来は、神話上の信念から航海者が到達できる限界を警告していた Non Plus Ultra ノン プルス ウルトラ  (この先には何もない)という標示から Non を取って、カルロス1世が大航海時代の領土拡大のモットーとして掲げていたことが始まりだそうです。

息子のフェリペ2世の治世には、ポルトガル王国と同君連合となったことで更に領土が拡大し、大帝国となったスペインは太陽の沈まぬ国と呼ばれるほどに。当時のフェリペ2世のモットーは Non sufficit orbis (世界は十分ではない)でした。ちなみにフェリペ2世の名がフィリピンの語源です。

 

スペイン人のルーツ

スペイン本土が位置するイベリア半島には様々な民族がやって来ましたが、スペイン人のルーツと言われているのはケルト・イべリア人です。

ケルト人は紀元前10世紀頃から数世紀に渡って半島にやって来て、中央部の高原や北西岸付近に定住し Castro カストロ と呼ばれる城塞集落を築きました。遺跡は現在もスペインのガリシア地方に多く残っています。

ケルト人南東部の先住民であったイベリア人が混血し、ケルト・イベリア人が誕生やがて紀元前3世紀頃から古代ローマ帝国が半島を統治するとケルト・イベリア人はローマ人と融合していきました。

 

先史時代

旧石器時代【150万年前~紀元前80世紀頃】

アフリカやヨーロッパ大陸からイベリア半島にやって来た人類が、食べ物を求めて移動しながら石器を用いて狩猟や採集をしていた旧石器時代。この時代の人類は状況に応じて洞窟の内外を住処にして暮らしていました。

世界遺産であるブルゴス県「アタプエルカ考古遺跡」は、約78万年前のホモ・アンテセッサーや約60万~20万年前のプレ・ネアンデルタール人など旧石器時代の人骨や石器が発掘された場所。既知の種とまだ特定されていない約120年前の化石人骨も発見されています。

  • 前期(約60万年前~)は、プレ・ネアンデルタール人が、それまでシンプルで使い捨てだった石器をより精巧に。小さな家族集団を形成し、埋葬の習慣もありました。
  • 中期(約20万年前~)は、ネアンデルタール人が用途によってサイズを変えた石器を作り、高度な道具をつくる技術が発達。火を使って調理するようにもなりました。
  • 後期(約4万年前~)は、ホモ・サピエンスによって芸術や宗教的信仰などの文化が栄えました。

旧石器時代に描かれた洞窟壁画は現在も半島各地に残されています。なかでもカンタブリア県アルタミラ洞窟」の動物の天井画は有名な世界遺産です。

アルタミラ洞窟壁画

新石器時代【紀元前80世紀~紀元前30世紀頃

気候変動による動物の激減や新たにやって来た民族の技術によって農耕や家畜飼育が始まり、集落に定住するようになりました。石器以外に土器などの技術も発達し、巨石文化が栄えました。支石墓であり神殿でもあったと言われる巨石建造物 Dolmen ドルメン は、地中海沿岸地域に集中しています。アンダルシア地方の「アンテケラのドルメン遺跡」は世界遺産です。

Antequera アンテケラ ドルメン遺跡

金属器時代【紀元前35世紀~紀元前3世紀頃】

金属器時代は銅器→青銅器→鉄器の順に移り変わります。紀元前20世紀頃まで続いた銅器時代の後、地中海方面から青銅技術が伝播して銅と錫の合金から作られる青銅器が作られるようになり、交易も盛んに。鉄器は紀元前8世紀頃からイベリア半島にやって来たインド・ヨーロッパ語族の諸民族によってもたらされました。また鉄器時代は地中海から海洋民族のフェニキア人やギリシア人が半島にやってきた時代でもあります。

 

古代

植民市時代【紀元前11世紀~紀元前3世紀頃】

交易が盛んになってきたイベリア半島へ海洋民族のフェニキア人、後にギリシア人がやって来て半島沿岸に都市を建設していきました。フェニキア人によって建設されたCádiz カディス は、ヨーロッパで最も古い港町の一つ。ギリシア文明の影響を受けた半島独自の芸術も開花しました。

紀元前7世紀頃からカルタゴ人が半島へ進出。ギリシア人を放逐して都市を建設し、西地中海の覇権を握りました。※カルタゴは紀元前9世紀頃に北アフリカに建設されたフェニキア人による都市国家。

スペイン人のルーツとい言われるケルト・イべリア人が形成されていったのもこの時代です。

イベリア半島という名称は古代ギリシア人による呼称で Iberia イベリアは、ギリシヤ語の Iberes イベレス が語源。ギリシア人が半島に到達したときに、先住民をイベレスと呼んでいたことが由来であると言われています。

 

ローマ帝国支配時代【紀元前3世紀~紀元後5世紀初頭】

ローマ帝国属州イスパニアの誕生

紀元前3世紀にカルタゴと共和制ローマが地中海の権益を争い、ポエニ戦争が勃発。第三次まで続いた戦いは、名将ハンニバルが率いるカルタゴ軍が奮闘するも、ローマの大勝利で終結。イベリア半島はローマの支配下となり初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)の治世にはローマ帝国の属州 Hispania イスパニア となりました。

ローマ人が呼称した半島の名称イスパニアの語源は古代フェニキア語の可能性が高いと言われています。意味については諸説あり、ウサギの土地、金属の土地、北の土地など。一般によく知られているのは、半島にウサギが多く生息していたことによる「ウサギの土地」です。正確にはウサギに似たハイラックスだとか... ウサギをペットとして飼う人もいるので昨今は少なくなってきていますが、スペインでは兎肉の食文化があります。

スペインの国名 España エスパーニャ (スペイン語読み) イスパニアが語源です。※Spain スペイン (英語読み)。

 

ローマ帝国の統治

ローマ帝国の半島統治は約700年続きました。イスパニアは初め3つの州に分かれていましたが後に5つに分割。公用語はラテン語ローマ橋、水道橋、劇場、円形競技場、神殿などが建設され、農業や工業が発展。様々な分野でローマ化され、イスパノローマ人が形成されていきました。

Mérida メリダ ローマ劇場

Segovia セゴヴィア ローマ水道橋

イベリア半島にキリスト教が伝わったのは1世紀中頃。ユダヤ人が移住してきたのもこの頃と言われています。キリスト教は4世紀にコンスタンティヌス帝が公認するまで、迫害されながらも根強く半島に広がっていきました。

 

中世

西ゴート人の支配時代【5~8世紀初頭】

西ゴート王国の誕生
4世紀になると東ヨーロッパに住んでいたゲルマン人が大移動します。先駆けとなったのは、東方からやって来た遊牧民のフン族から逃れるために移動を始めた西ゴート族西ゴート族ローマ帝国に保護を求め、ローマ帝国領内へ移動しました。
一方、統治に揺れていたローマ帝国は 4世紀末にキリスト教の三位一体説のアタナシウス派を正統な教義として国教化し、国家統一を図るも東西に分裂イベリア半島は西ローマ帝国の領土となりました。ローマ分裂の影響で次第に教会も東西に分離し、西はカトリック教会、東は正教会へと徐々に確立していきます。
西ゴートは次第に大きな勢力となり、西ローマ帝国の同盟軍に。5世紀初頭にはイベリア半島北部を支配し、トロサ (現在の仏トゥールーズ) を都とした西ゴート王国を建国徐々に衰退した西ローマ帝国は5世紀後半に滅亡し、同時にローマ支配のイスパニアも終了西ゴート王国は6世紀にフランク王国に敗北し、領土がイベリア半島のみとなると半島中央部に位置する Toledo トレド 遷都して西ゴート王国を再建イベリア半島の大半が西ゴートの支配下となりました。

Toledo トレド
西ゴート王国の統治
内紛続きの西ゴート王国の統治は約200年続きました。実際には征服者の西ゴート人よりも被征服者のイスパノローマ人の方が人口が多く、宗教に関してはアリウス派キリスト教を信仰していた西ゴート人とカトリックのイスパノローマ人で対立。6世紀には西ゴート王国の公認宗教がカトリックになりました。
 

イスラム支配時代【8~15世紀】

アル・アンダルスの誕生

7世紀のアラビア半島ではイスラム教が創始され、イスラム国家が成立し、徐々に領土を広げていました。開祖ムハンマドの没後、後継者が互選によって選出された正統カリフ時代を経て、シリアにイスラム初の世襲制王朝となったウマイヤ朝 (都:ダマスカス) が建国されます。ウマイヤ朝は更に領土を拡大し、北アフリカの領土から肥沃な土地を求めてイベリア半島を占領する機会を窺っていました。

8世紀に西ゴート王国の内紛に乗じてイスラム軍が北アフリカからジブラルタル海峡を渡って半島に侵入。トレドを占領し、西ゴート王国を滅ぼしましたアラブ人が主導するイスラム軍の殆どは北アフリカの先住民族であったベルベル人でした。

当時半島に住んでいたユダヤ人は、徐々にユダヤ教に不寛容になっていた西ゴート王国に不満を募らせていたためイスラム軍に協力的でした。また抵抗しない西ゴートの貴族に対し特権を与えるなどイスラム軍の戦略もあり、半島の3分の2を約3年で征服。抵抗した西ゴート王国のキリスト教徒たちは、占領を免れた半島北部へと逃げていきました。

都は南部の Córdoba コルドバ に置かれ、イスラム教徒が征服した半島の領土はアラビア語で Al-Ándalus アル・アンダルス と呼ばれるように。征服前はイスラム教徒たちによるイベリア半島全域の呼称だったそうです。

イスラム軍がイベリア半島に侵入した際に上陸した場所にあった岩山は、イスラム指揮官ターリク・イブン・ズィヤードの名から、アラビア語で「ターリクの山」を意味するジャバル・アル・ターリクと呼ばれ、そこから転訛して現在の「ジブラルタル」の街や海峡の名称となりました。現在はイギリス領。

ジブラルタル岩山

イスラム軍はアル・アンダルスから更にピレネー山脈以北へ侵攻しますが、トゥール・ポアティエ間の戦いでフランク王国に敗北し撤退。フランク王国はイスラム勢力の再侵攻を防ぐ緩衝地帯としてイベリア半島の北東部に辺境伯領を設けました。分割されていた諸伯領はフランク人か現地の伯爵によって統治されていました。8世紀~9世紀にかけて拡大していったこの領域は「スペイン辺境領Marca Hispánica マルカ イスパ二カ と呼ばれています。 

 

ウマイヤ朝の統治【8世紀初頭~中頃】

ウマイヤ朝アラブ帝国の支配下となったアル・アンダルスは、派遣された総督によって統治されていましたが、ベルベル人がアラブ人から受ける不当な格差に対して反乱を起こしたり、アラブ人の部族間でも争いが起きていました。

ウマイヤ朝時代は、キリスト教徒やユダヤ教徒は啓展の民として信仰の自由が認められ、税金を支払うことで居住や財産所有が許されました。そのため半島には更に多くのユダヤ人が移住してきたそうです。なかには都市の防衛などを任されたユダヤ人も。こうして宗教的対立を生むことなくイスラムキリストユダヤ三宗教が共存していました。この時代、アラブ文化に馴染みながらもキリスト教を信仰し続けた人を Mozárabe モサラべ、イスラム教に改宗した人は Muladí ムラディ と呼ばれ、キリスト教とイスラム教の要素が融合したモサラべ様式と呼ばれる建築芸術も生まれました。

 

後ウマイヤ朝の統治【8世紀中頃~11世紀前半】

8世紀中頃の中東では、ウマイヤ朝に反発するハーシム家から分派したアッバース家による革命が勃発。ウマイヤ朝のアラブ人第一主義に反発する異民族改宗者マワーリーの協力を得たアッバース家ウマイヤ朝を滅ぼしました。

生き残ったウマイヤ家アブド・アッラフマーン北アフリカへ逃亡した後、アル・アンダルスへ渡り、コルドバの総督の座を奪ってウマイヤ朝を再興イスラム帝国から独立した後ウマイヤ朝の初代アミール アブド・アッラフマーン1世として即位しました。後ウマイヤ朝による統治は約250年続くことになります。

都コルドバは栄え、10世紀のアブド・アッラフマーン3世の治世に最盛期を迎えます。自身をカリフと称しウマイヤ朝カリフ国樹立を宣言。アブド・アッラフマーン3世は政治的権力だけでなく、宗教的権威も手に入れました。

※分裂していたイスラム帝国では、10世紀初頭にファーティマ朝もカリフを称していたので、バグダードのアッバース朝、カイロのファーティマ朝、コルドバの後ウマイヤ朝と、其々カリフが存在する三カリフ分立時代となりました。

後ウマイヤ朝の首都 Córdoba コルドバ は、政治、文化、学問において大きく栄え、多くの寺院や浴場が建設されました。ユダヤ人は知識人や商人としても活躍していました。

Córdoba コルドバ

都市を象徴するのは、2万5千人が収容できる巨大なイスラム教寺院 Mezquita メスキータ共同利用していた教会をアブド・アッラフマーン1世が改築に着手。増築されながら200年以上かけて完成しました。13世紀にキリスト教徒がコルドバを奪回すると、内部が改装されて大聖堂に。イスラムとキリストが融合するこの歴史的な建造物は「コルドバのメスキータ-大聖堂」として20世紀に世界遺産となりました。

Mezquita-Catedral de Córdoba メスキータ-カテドラル・デ・コルドバ
タイファ王国の始まり【11世紀前半~】

内紛によって11世紀前半に後ウマイヤ朝カリフ国が滅亡すると、各都市が独立してタイファと呼ばれる小王国が乱立し、タイファ王国時代となりました。この頃、8世紀から続くレコンキスタが本格化し始めます。

 

ムラービト朝、ムワッヒド朝の統治【11世紀末~13世紀初頭】

イスラム勢力はタイファ間の対立やキリスト教国の攻撃で脆弱したため、北アフリカ起源のムラービト朝に救援を要請。そのことがきっかけで11世紀末にはアル・アンダルスをムラービト朝が統一12世紀に北アフリカ起源のムワッヒド朝によってムラービト朝が滅ぼされると、第2次タイファ王国時代に。12世紀中頃にはムワッヒド朝によって統一されますが、13世紀に内紛により崩壊し半島から撤退。アル・アンダルスは、第3次タイファ王国時代へ。キリスト勢力の更なる攻撃によってアル・アンダルスは半島南部のみとなっていきました。

ムラービト朝ムワッヒド朝異教徒に不寛容であったため、迫害されたキリスト教徒やユダヤ教徒の多くはアル・アンダルスを離れ、半島のキリスト圏へ移り住みました。

 

アル・アンダルスの滅亡【15世紀末】

半島のイスラム圏が南部だけとなっていた13世紀にイスラム国家のナスル朝グラナダ王国が建国されました。ナスル朝グラナダ王国はキリスト勢力のレコンキスタの停滞やカスティーリャ王国に臣従を誓い税金を支払うなどの外交によって王国を250年以上も存続させました。その間、イスラム建築の最高傑作と評されたアルハンブラ宮殿が建設されました。

15世紀末、半島で唯一イスラム国家であるナスル朝グラナダ王国はキリスト勢力からの攻撃を受け包囲されます。ナスル朝最後のスルタンとなった Boabdil ボアブディル は、降伏条件を受け入れ、グラナダ王国は陥落この時の降伏条件はイスラム教徒に対し信仰の自由を認める他、様々な権利を認める寛大なものでした。こうして1492年1月2日に最後の砦となったアルハンブラ宮殿が無血開城され、アル・アンダルスは幕を閉じました。

キリスト教徒側はレコンキスタが完了。キリスト教徒が再征服した領土に住み続けたイスラム教徒は mudéjar ムデハル と呼ばれ、イスラム教とキリスト教の要素が融合したムデハル様式と呼ばれる建築芸術が生まれました。

 

キリスト教徒のレコンキスタ【8~15世紀】

Reconquista レコンキスタ とは、キリスト教徒がイスラム教徒に奪われたイベリア半島の領土を奪回する活動です。国土回復運動とも言われます。

イスラム軍の占領を免れた半島北部に逃れていた西ゴート貴族の末裔 Pelayo ペラーヨ が在地のキリスト教徒を率いてアストゥリアス王国を建国し「コバドンガの戦い」で勝利したことがレコンキスタの始まり。イスラム軍が8世紀初頭にイベリア半島に侵入してから約10年後のことです。

それから半島北部にキリスト国家が複数建国されました。8世紀~10世紀はキリスト教諸国の内紛や対立が激しくレコンキスタは停滞していましたが、イスラム勢力が衰退し始めた11世紀~13世紀には本格化し南下しながら領土を奪回していきます。レコンキスタの英雄として最も有名なのは、11世紀後半に活躍した騎士 Rodrigo Díaz ロドリーゴ・ディアス、別名 El cid エル・シッド

レコンキスタの間はキリスト国家間やイスラム国家間の領土争いも激しく、適宜にキリスト国家とイスラム国家が同盟を結んで敵国と戦うこともありました。

 

中世のキリスト教5大国

中世のキリスト圏の国々は分離と統合を繰り返しながらも、統一されていきました。5大国の中でも中核となっていったのはカスティーリャ王国でした。

  1. レオン王国 
  2. カスティーリャ王国
  3. アラゴン王国
  4. ナバラ王国 
  5. ポルトガル王国
  • レオン王国の前身はレコンキスタをスタートさせたアストゥリアス王国。10世紀にオビエドからレオンに遷都してレオン王国と呼ばれるように。

  • カスティーリャ王国は10世紀にレオン王国から独立したカスティーリャ伯領が起源。11世紀にパンプローナ王国に併合されるも、後に3分割に相続された一国としてカスティーリャ王国が誕生。その2年後レオン王国と同君連合となりカスティーリャ=レオン王国に。12世紀に分離と統合を繰り返すも最終的に13世紀に連合王国となり、それからはカスティーリャ王国と呼ばれるように。

  • アラゴン王国スペイン辺境領の伯領だったが9世紀には独立。10世紀になるとパンプローナ王国に併合された。11世紀にパンプローナ王国のサンチョ3世没後の3分割された相続の一国としてアラゴン王国が誕生。12世紀にはカタルーニャと統合し、アラゴン連合王国となりカスティーリャ王国の次に大きな勢力となった。カタルーニャは半島北東部の地域で、バルセロナ伯領が中心となっていたスペイン辺境領の諸伯領が起源。10世紀に独立したが、カタルーニャと呼ばれるようになったのは12世紀頃からと言われる。アラゴン連合王国は13世紀にカスティーリャ王国と各々奪回する領土を決めるアルミスラ条約を結び、13世紀中頃にレコンキスタを完了させた後、地中海へ進出。

  • ナバラ王国の前身はパンプローナ王国。徐々にナバラと呼ばれるが、正式にナバラ王国に改称されたのは12世紀。最盛期は11世紀のサンチョ3世の治世で、当時のキリスト圏をほぼ全域支配した。サンチョ3世の没後、領土はパンプローナ王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国、ソブラルべ伯領とリバゴルサ伯領の4分割に相続された。やがてパンプローナ王国は衰退。11世紀後半にアラゴン王国に併合されるも12世紀に再び独立。13世紀からのフランスの統治時代などを経て、スペインとフランスに跨る領土は16世紀にスペイン側はスペインに、フランス側はフランスに併合された。

  • ポルトガル王国は12世紀にカスティーリャ=レオン王国から分離して建国され、ローマ教皇から認められ独立。13世紀に一足早くレコンキスタを完了させ、15世紀にはスペインより先に大航海時代へ。16世紀のスペイン国王フェリペ2世の時代に同君連合となるも17世紀に再び独立。

 

領域マップと主な大戦

11世紀に後ウマイヤ朝が滅び、イスラム勢力が衰え始めました。11世紀後半にはキリスト勢力の中心であったカスティーリャ=レオン王国がトレドを奪回。その翌年、カスティーリャ=レオン連合王国は、北アフリカから救援にやってきたムラービト朝が率いるタイファ連合軍と「サグラハスの戦い」で奮闘しましたが大敗に終わりました。

12世紀のキリスト勢力はアラゴン王国がサラゴサ、ポルトガル王国がリスボンを奪回。この時代にはローマ教皇の支援で南仏から十字軍の援軍や騎士団が到来したり、半島でも騎士団が誕生。12世紀末にはカスティーリャ王国と当時アル・アンダルスを統一していたムワッヒド朝との大戦「アラルコスの戦い」が起きました。結果、カスティーリャ王国の大敗で終わりました。

レコンキスタが更に本格化した13世紀。強敵ムワッヒド朝を倒すため集結したキリスト軍が「ナバス・デ・トロサの戦い圧勝を収めました。やがてムワッヒド朝が内紛によって崩壊し、イベリア半島を撤退して第3次タイファ時代に。キリスト勢力は大躍進していき、イスラム圏は南部だけとなっていきました。13世紀後半は北アフリカからマリーン朝が半島に侵入し、キリスト勢力とイスラム勢力は海峡都市を巡って争い、14世紀前半の「サラド川の戦い」でキリスト軍勝利しました。

 

スペインの誕生

1469年、二大勢力であったカスティーリャ王国のイサベル王女アラゴン連合王国のフェルナンド王太子結婚しました。1479年には各々が国王に即位し、カスティーリャのイサベル1世アラゴンのフェルナンド2世による連合王国となりましたこの共同統治によって、1492年に半島唯一のイスラム国家であったナスル朝グラナダ王国を陥落させ、約8世紀に渡るレコンキスタが完了同年イサベル女王の支援によってコロンブスが新大陸を発見。スペインが後に大帝国となる大航海時代がスタートしました。

イサベルとフェルナンドは1496年にローマ教皇から功績を称えられカトリック両王の称号が贈られました。両王は各々の領土を独自の政体で維持しつつ、王権の強化や財政の改善を目指して様々な面で統一を図っていき、やがて España エスパーニャ と呼ばれるようになります。スペイン統一の年については諸説ありますが、中世のキリスト国家が統合したスペインの基盤はカトリック両王時代に形成され、進化しながら成立していったと言えます。

 

レコンキスタ後の異教徒の行方
  • ユダヤ教徒

イベリア半島には、ローマ帝国の統治時代からユダヤ人が半島へ移住してきました。商人や知識人としても活躍したユダヤ人ですが、11世紀末にヨーロッパでカトリック教徒のユダヤ教徒に対する迫害が始まると、13世紀頃からイベリア半島でも迫害が広まっていきました。14世紀になると内紛やペスト、経済的危機に陥った社会に対する不満の矛先がユダヤ教徒に向けられ、キリスト圏の各地で反ユダヤ感情による暴動が起きました。約4千人のユダヤ人が殺され、改宗or追放を迫られました。改宗者は Converso コンべルソ と呼ばれましたが、この時ユダヤ教からキリスト教へ改宗したコンベルソは約15万人。その殆どは内心でユダヤ教を信仰していたため、偽装改宗者に対して Marrano マラーノ という蔑称がありました。

やがて反コンべルソ運動が始まり、レコンキスタ完了の少し前にはローマ教皇の認可を受けて異端審問所が設置されました。15世紀~16世紀の間に異端尋問によって火刑に処されたコンべルソは、6千人以上にも及んだそうです。

レコンキスタが完了した1492年にはユダヤ教徒追放令が出され、改宗せずに追放されたユダヤ教徒は北アフリカ、オスマン帝国、ヨーロッパ諸国へと移住。Sefardí セファルディ (スペイン系ユダヤ人の意)と呼ばれました。

 

  • イスラム教徒

ナスル朝グラナダ王国の降伏条件の一つに、イスラム教徒に対する信仰の自由がありましたが、宗教的統一を目指すキリスト教徒によるイスラム教徒への迫害が次第に進んでいきました。弾圧に対しイスラム教徒が暴動を起こすと、カトリック両王は降伏時の協定を破棄。16世紀初頭にイスラム教徒は改宗or追放を迫られ、改宗者は Morisco モリスコ と呼ばれるようになりました。モリスコの多くは内心でイスラム教を信仰していました。

敬虔なカトリック教徒であったフェリペ2世の治世には、モリスコの文化や伝統が禁止され、モリスコによる反乱が起きました。17世紀のフェリペ3世の治世ではイベリア半島からモリスコが追放され、約30万人のモリスコが主に北アフリカへ逃れていきました。

 

 

【参考文献】

川成洋著「図説スペインの歴史」1999年1月発行 ふくろうの本 河出書房新社